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私と町ゲーセンの思い出(その3・音ゲーブーム~2000年の大氷河期時代)

前回からの続きになります。前回、及び前々回を読んでいらっしゃらない方は、そちらから読まれるのをおすすめ致します。

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私と町ゲーセンの思い出(その2・2D格ゲーブーム~3D格ゲーブーム)
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前回は2D、3D格闘ゲームの大ブームで、ゲーセンが対戦台で埋め尽くされたところまで書きましたが、今回はその後、格ゲーブームの収束とそれからのゲーセンの話。

実は前回までは町ゲーセンのと言っても、その規模の大小はあっても、メーカー系のゲーセンのそれとは大きな違いはありませんでした。あるとすれば大型筐体の有無とUFOキャッチャーの数くらいでしょうか。それは前回までに語ったように、ゲームセンターの主流は格闘ゲームを中心としたビデオゲームであり、それらは町ゲーセンでも大手のゲーセンでも設置台数や種類(まあシューターにはこの種類の差が大きかったりしたのですが)の違いくらいしか差が出なかったのですね。

しかし、これから先町ゲーセンと大手のゲーセンは明確な差が出て来ます。

 

格ゲーブームの陰りと音ゲーの登場

Beatmania
Beatmania / Mattias H

1998年頃になると、さすがに4年も経つ3D格闘人気にも陰りが見えてきました。これは前回の終わりの方で書きましたが、うまいプレイヤーとそうではないプレイヤーの差が開き始めて、勝てないプレイヤーがどんどん離れ始め、初心者お断り的な空気になってしまっいたというのが大きな理由としてあります。

あと、この頃になるとプレイステーションやセガサターンがアーケードに近いスペックとなってきて、わざわざゲーセンまで行かなくても家でそれらのゲームを楽しめるようになってしまったのですね。皮肉な事にそれを証明してしまったのが、アーケードの人気作であり、それぞれのハードのキラーソフトとなった『バーチャファイター2』や『鉄拳2』でした。とはいえこの頃はまだ家庭用での通信対戦格闘は難しく(X-BANDなど一部の例外あり)、家庭用で練習してゲーセンでプレイというパターンでの相乗効果があったのでよかったのですが、格ゲーが飽きられてきた時に、そしてドリームキャストやPS2が登場して大きく影響されることになります。

さて、そんな時代に登場したのが『ビートマニア』。ゲーセンにおいて音ゲーというジャンルを確立した存在です。最初は普通の大型筐体ゲームのひとつだったこの作品ですが、だんだんと単純な操作性ながら爽快感が溢れるゲームはたちまち人だかりが出来るほどの人気が出ます。そしてPSでも当時としては異例の専用コントローラと共に発売され、大人気を博します。
その後、本家『ビートマニア』の他、『ダンスダンスレボリューション』『ポップンミュージック』『ギターフリークス』『ドラムマニア』『キーボードマニア』等々が登場し、それらも人気を博すこととなり、一気にゲームセンターでの主役的存在となってゆきます。
あと、他社から似たようなのが出て裁判とか起きたりそんなことも。

 

音ゲーがゲーム音楽に与えた影響

Loot of the day: beatmania IIDX 19 Lincle ORIGINAL SOUNDTRACK
Loot of the day: beatmania IIDX 19 Lincle ORIGINAL SOUNDTRACK / whileimautomaton

さて、このブログ的に言うと、このビートマニ及び音ゲーはゲーム音楽においてもひとつの転機でした。ゲーム音楽はそれまでも非常に素晴らしいものが多くはありましたが、あくまでゲームの後ろでゲームを支える裏方的な存在でした(最大に押し出されたのが『メタルブラック』『ダライアス』などのタイトーシューティングでしょうか)。しかし音ゲーはゲーム音楽をそのゲームにおける中核的存在に持ってきてしまったのです。この後ゲーム音楽はコアなファンの評価のみならず多くの人が注目する存在となってきますが、おそらく音ゲー及びそれに影響されたこの後のゲームの影響もあったでしょうね。

 

音ゲーを置けなかった町ゲーセン事情

しかしながら、格闘ゲームのように全てのゲーセンにおいて音ゲーが置けたわけではありません。このような音ゲーで溢れたのは大きなゲーセンが大半であり、小規模な町ゲーセンでは場合によっては全く存在しないこともありました。

何故、ゲーセンは音ゲーを置けなかったか。一番の理由は費用の問題でしょう。音ゲーは大型筐体の部類に入ります。そして導入コストも基板、それも高いと言われたバーチャファイター2(MODEL2)よりも効果になってしまうので、ちょっとしたお店規模の町ゲーセンではおいそれと導入できなかったのですね。特に人気が出るかわからない新機種は、外したらそのまま店のピンチにも繋がってしまいますし。

それと、場所の問題もあります。当時の音ゲーのサイズは現在のIIDXやDDR、ポップンミュージックくらいの大きさのものが普通で、jubeatなどのコンパクトなものではありませんでした(ビートマニアは後にミニ筐体登場)。よって、小さいゲーセンではそれを置いただけでスペースをとってビデオゲームを置けなくなるので、それらを置けない店も多かったと思われます。

これらの理由で、音ゲーを導入せず、まだ一応人気のあった格ゲーなどビデオゲームで繋ぐ店が多かったのです。

※追記

ちなみに大型店でもとある事情において音ゲー(主に特定のメーカー)を置けなかった理由もありますが

■参考

音ゲー訴訟はあれからどうなったのか : Timesteps
2000年あたりでコナミやジャレコ、ナムコなどが争っていた音ゲーの特許訴訟はそれからどうなったのか。

 

プリクラの爆発的ブームがゲーセンを変える

ふぐプリクラ
ふぐプリクラ / bm.iphone

とはいえ、もうひとつ導入しない理由がありました。それはこの1997年前後、『プリント倶楽部』プリクラが大ブームになったからです。これらの人気は大手ゲーセンではいくつかあるうちのフロア1つや2つが丸ごとプリクラフロアになってしまう事も珍しくないほどでした。まあそれで男性の入場禁止のゾーンも出来たりして、ゲーセンなのに男子が入れないというそれまでになかった現象も生まれていました。

そして町ゲーセンにおいても、これらを店の入り口などに置くところが増えており、今まで女性を殆ど見なかったようなゲーセンでさえ並ぶ女子を見かけるという(それまでのゲーセン常連からしたら)珍事まで発生しました。まあそれでゲーマー男子に女子との接点が増えた……らよかったかもしれないですが、全国的に全く聞いたことないです。ゲーセンで出会った女の子のなんたらとかいう話もどうも信じられないのは私がゲーマーなのと関係あるでしょうか。
それはともかく、このプリクラ人気が故に資金、そしてスペース的にこれ以上大型筐体である音ゲーを置けない町ゲーセンが多かったと思われます。

とはいえ、町ゲーセンでもビーマニとかDDR入れてるゲーセンあったのですけどね。ただ、小さなゲーセンにどんと置いてあるその存在感はかなりものでした。

 

プリクラ人気収束後のゲーセン氷河期時代

Amusement Arcade
Amusement Arcade / Dick Thomas Johnson

しかし、2000年代に入るといよいよプリクラ人気が収束してしまいます。さらに音ゲーもまだ人気はあったもののその勢いはやや落ち着いてきており、格闘ゲームに至ってはその人口減少がかなり進んでいたように思われます。
さらに1998年にはドリームキャスト、2000年にはPS2が登場し、ここにおいて家庭用ゲーム機のスペックがアーケードビデオゲームのそれに追いついてしまいました。よってそれまではアーケードでしたできなかったビデオゲームが、家でも遊べるようになってしまったのです。
アーケードゲームも一応バーチャも鉄拳も出てはいたものの、最盛期の盛り上がりからはかなり落ちていました。さらに2D格闘に至っては、強豪の一角であるカプコンからのリリースがアーケードゲームごと激減するような状態にまでなってしまった上、SNKアミューズメント事業の失敗で倒産(とその後のゴタゴタ)と不幸が続きます。
音ゲーは大ブームではなくなったものの、まあそこそこ安定しておりシリーズを重ねてはいましたが、それでも前述のような理由で町ゲーセンでは入れることのできないところも多かったようです。とはいえ初代ビートマニアは小型筐体が出たので、それを入れる町ゲーセンはそこそこありましたけどね。
そして1999年には、長い間アーケードゲーム唯一の専門誌であった『ゲーメスト』も発行本の新声社の破産により、廃刊となってしまいます。ただし誤解のないように補足しておくと、これはアーケード冬の時代が根本原因ではなく、業務を無駄に拡張してしまった結果、採算がとれなくなったことによるものが大きいと言われています。実際その後スタッフの一部がエンターブレインで『アルカディア』を創刊してますしね。

 

この当時の自分周辺の町ゲーセン事情


DSCN4222.JPG / Osamu Iwasaki

その隙に、町ゲーセンはどんどん減少してゆきました。その1で近所にあった町ゲーセンの数について述べましたね一応引用しておくと以下の通り。

 うろ覚えですが、桜台駅前にセガ直営、練馬周辺に2件、中村橋に2件、富士見台に2件(一瞬3件あったことも)、野方に2件、鷺宮に1件、下井草にも1件(「ヒノーズ」というスコアラー店をごく少数の人はご存じかと)、そして学生街である江古田には4件、さらに中野まで出てしまえば無数に存在します(行ったことのある店は北口ブロードウェイ&サンモール内だけですが、そこでも6店ありましたら、広げれば10超えてたかも)。

が、この当時は記憶では桜台セガ消滅、練馬は2件残存、中村橋は2件残存していましたが、富士見台は1件がパチスロ屋になり1件に、そして野方、鷺宮、下井草の西武新宿線沿線は壊滅してしまいます(中央プラザという店が引いたのが大きい)。さらに中央線沿いでも大手系列店は生き残っていましたが、町ゲーセンレベルは閉鎖するところが見受けられました。

 

しかし、生き残ったゲーセンも、格ゲー、プリクラ、音ゲーレベルの大ヒットゲーはなく、かなり苦しい状況でありました。まさにこの時は町ゲーセン氷河期と言える時代だったと思われます。
ちなみに自分もこの頃になると就職したり辞めたりその後また働いていろいろあったりしてドタバタしていたため、ゲームセンター通いから離れてしまいました。もし、何かそこに行ってやりたいゲームがあれば通っていたでしょうが、時間のなさは行く欲求をはるかに下回っていました。たまに行ってもレトロゲーばっかりやってたような。
さて、ここで生き残った町ゲーセンはどうなったのか、次はこの状態から現在までを書いてラストとします。

 

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私と町ゲーセンの思い出(その4・ゲーセン大氷河期から現在まで)
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