個人的な経験からの町ゲーセンの歴史を書いた前回の続きです。未読の方は以下からお読み下さい。
前回は平成初期までを書きましたが、そこで最後に名前を挙げたゲームが『テトリス』(1989年稼働開始)と『ストリートファイターII』(1991年稼働開始)。言わずと知れた超有名ゲームですが、本文の主旨に沿ってそれらのゲームがゲーセンでどのような影響を与えたのかについて書こうと思います。
突然のテトリス人気
Tetris, the only game that matters / fredcamino
まずテトリス。1989年にファミコンソフトがBPSから、そしてアーケードゲームとしてもセガから販売されます。どちらも人気が出ましたが、特にアーケード版、通称セガテトリスは操作性などデキがよく、人気が集まりました。
私がゲーセンに行き始めた時期はすでにこのブームは始まっていた感じで、ゲーセンの一角に置かれたテーブル筐体のテトリスを覗き込む背広姿の人が多く見られました。たぶん外回りの営業サラリーマンの人だったのでしょうね。当時はバブル景気の最後期でありながら日中暇を潰すマンガ喫茶のような場所は少なく、またケータイなどモバイルグッズも全く普及していなかったので、ゲーセンは暇を潰すちょうど良い場所だったのかもしれません。
しかし、この当時セガ直営店舗を除くあちこちで見かけたのが微妙にセガ純正とは違う感じのテトリス。おそらくはコピー版ですね(見分け方としては、セガテトリスでは画面横にいたテトザルがいない等)。この当時、テトリスの爆発的人気で需要が多かったため、流通過程で紛れ込んだか故意に仕入れられたかは不明ですが、そのようなものが紛れ込んだようです。とはいえこれはその時始まったものではなく、このコピー版、海賊基板の歴史はそれこそ1980年代のナムコブーム時代かそれ以前から存在し、ゼビウスではそれを見分けるためのコマンドなども用意されていたとのことです。
ただ、この時代以降著作権に対する各社の取り組みが強まってゆき(時によっては中古ソフト裁判とか暴走しつつ)アーケード海賊版は駆逐されてゆきます。おそらくテトリスがそれらが最後に広まったゲームだったかもしれません。
ちなみにテトリスの歴史についてはここから非常に複雑な展開が起きるのですが、Timestepsで以前書きましたので、以下のほうを読んで頂ければと。
そんなことがありながらこのテトリス人気で、町ゲーセンでもそれまで以上のインカムが入ったと思われます。しかしゲームセンターはそれでもプレイが上手い人にかかるとインカムが延びないという慢性的問題をかかえていました。一説ではグラディウスを朝プレイし始めて、閉店まで延々何周もしていた人がいるという話ですし。そうなると一日に収入は1コイン分なわけです。その構造は永遠パターン防止とかループしないシステムなどで防止されましたが、それでも1プレイが何十分もするというのは珍しくなく、経営的問題として残っていました。
2D格闘と対戦台の登場
The joy of Street Fighter / illustir
そこで登場したのが『ストリートファイターII』。このゲームの対戦格闘という今ではすっかりおなじみの仕組みが、ゲーム、そしてゲームセンターにとっては革命的なものとなります。ゲーム的には、それまであまり一般的ではなかった知らない誰かと対戦をするというシステムで楽しみの幅が非常に広がり人気が集まりました。それと同時に対戦格闘では片方の人が最短2ラウンドの数分で負けるため、どんどんインカムが積み重なることとなります。
その人気とインカム効率の良さから、多くのゲーセンではストIIを導入し、同時に他社からも続々と対戦格闘ゲームがリリースされ、ゲームセンターの主流となります。同時にそれまでのシューティングやアクションが奥に追いやられる形になってしまいましたが。とりわけシューティングはここから、大メーカーからのリリースは減少、東亜プランは倒産といった長い冬の時代に入り込みます。
自分は最初のうちは、アーケードゲームとしては異例の6つのボタンを使うというシステムがどうにも馴染めず、またこのあたりで受験のためにゲームセンターから離れたため、格闘ゲームをやり込むのは少し後になってしまいました。
その離れているうちにSNKから餓狼伝説シリーズ、なども登場し、さらに盛り上がりを見せてゆきます。アーケード専門雑誌ゲーメストにおいても、その大半が格闘ゲームの記事となります。
3D格闘の爆発的人気で対戦台だらけになるゲーセン
Megalo2 / videocrab
そしてストIIの発売から2年程経ち、キングオブファイターズ’94やサムライスピリッツといった人気作が出るものの、ゲーセンの多くのゲームが2D格闘となりややマンネリ感が出てきた頃、次の主流となる存在が登場します。その名は『バーチャファイター』。すなわち3D格闘ゲームです。
バーチャファイターはいきなり登場し、見た目から操作性まで今までのゲームとは次元が違ったそれはまさにゲームの革命と言えるもので、3D格闘のみならずこの後の3Dゲームの操作性、ポリゴン使用の主流化などと大きな影響を与えます。
そしてカクカクの見た目をものともしない熱狂的なプレイヤーを増やしてゆき(つか、あのポリポリが味でしたね)、また、同時期に操作性やキャラクター性で同じく人気を博した『鉄拳』もリリースされ、一気に2D格闘を追い抜いてゆきます。
決め手となったのは、1994年末に登場した『バーチャファイター2』、それに1995年夏に登場した『鉄拳2』。これの対戦人気はすさまじく、この対戦台がゲーセンのビデオゲームフロアの大半を占める勢いとなります。当時のゲーセンを知る人なら、トップにオレンジ色のランプがついたバーサスシティが並ぶ様を思い出すことでしょう。
ただ、町ゲーセンとして振り返ると問題もありました。この『バーチャファイター2』の基板の値段、1枚が100万近くしたということなのですね。たしかに最新であるMODEL2のそれはコストもかかっていたでしょうが、それまでの基板の値段が主に20万~30万だったことを考えるとほかの基板3~5枚分となるわけで、かなりの出費を強いられたことでしょう。それでもこの3D対戦格闘人気はそれらの経費を軽く超えるくらいの人気がありました(すごく逆に言えば、これが人気後退後の3D格闘人気を一気に加速させる一因でもあったと思われますが)。
同時にゲーセンにおける対戦マナーの問題も出て来るのですが(これは2Dの頃からですが)その話は今日は割愛。
この時代の格ゲー以外のアーケードゲーム
ナリタにはゲーセンもあるぜw / casek
さて、格闘ゲームが主流となり、前述の通り町ゲーセンも一気に対戦台で埋め尽くされます。しかし全く他のジャンルがなかったわけではありません。大型筐体としてはレースゲームがポリゴンを使い始めたのもあり人気が再燃し、セガ系の『セガラリーリャンピオンシップ』、ナムコの『リッジレーサー』シリーズなどが人気を博して、多くのゲーセンに置かれるようになります。特にナムコの『レイブレーサー』は、多くの町ゲーセンでも普及し、その赤い筐体が目立ちました。
シューティングはこの冬の時代の入り口ながら、名作が数多く生まれます。代表的なところでは『極上パロディウス』『レイフォース』『ダライアス外伝』『バトルガレッガ』等々。私はこれらがあったから、シューティングにハマったと言えます。ただ残念なことに当時の町ゲーセンだとこれらを仕入れるところもあまりなく、新宿のメーカー系ゲーセンまで通っていました。
意外なところではこの頃麻雀系のリリースが多かった気がします。もちろん脱衣系のスーパーリアル麻雀シリーズやスーチーパイシリーズもそうですが、一番人気があったのがホットギミックシリーズ。いや、もちろんこれも脱衣麻雀なのですけど、このゲーム、対戦が出来るのですね(そっちはエロモードなし)。そこで背広の人とかがよく対戦していました。当時まだネットは普及しておらず、東風荘など対戦麻雀もなかったので、そういうところがゲーム麻雀の対戦欲求を満たしていたのだなと思います。
格ゲーブーム収束の空気とその先は……?
そして、いよいよ世紀末、1998~9年頃になると3D格闘ゲームも一段落ついてきます。その理由はさすがに初代から5年経ちゲームが飽きられて来たのもそうですが、対戦格闘ではうまいプレイヤーは延々とゲームをしていられるのに、それより劣るプレイヤーはゲームがほんの少ししか出来なくなってしまう仕組みであったため、追いつけなくなったプレイヤーがそのゲームを止めてしまい、結果プレイヤーが減少するといったことが起き始めていたのだと思われます。
さて、ゲーセン史では次の救世主としてビートマニアなどの『音ゲー』『プリクラ』が出て来るのですが、こと町ゲーセンの話題になると、ここが大きな分岐点となります。
次回は前述の救世主は町ゲーセンではどうなったのかという話(2000年以降くらい)で。
Next