海外のゲームサイトにて『偉大なゲームクリエーターTOP10』という企画がありました。順位は以下の通り。
1 宮本茂
2 ウィル・ライト ※シムシティ
3 ジョン・カーマック ※DOOM
4 小島秀夫
5 三上真司
6 ウォーレン・スペクター ※ウルティマ
7 横井軍平
8 坂口博信
9 稲船敬二
10 ピーター・モリニュー ※ポピュラス
ここで、横井軍平さんが7位になっています。たしかに外国でのアンケートにおいて日本人が6人も入ることは嬉しいのですが、横井さんに関してはちょっと低いんじゃないかなあと思いました。まあそれは現役の方比較してとしょうがないとは思ったのですが、コメントを見ると、横井さんを素で知らない人がいる模様。他のクリエイターを知っている位のゲームになじみのある人が横井軍平さんを知らないことに驚きました。
一応、そんな感じで横井さんの功績を知らない人に対しては、語り出すととんでもなく長くなるので、以下のサイトをご参照ください。
代表としては「ゲーム&ウォッチ」「ゲームボーイ」がありますが、それだけにはとどまらずたくさんの玩具やソフト、ハードの開発に関わり、長年、任天堂のキーマンとして活動してきました。横井さんがいなければ、ゲーム会社としての任天堂は(少なくとも今の形では)なく、ゲーム業界自体も今の形では存在してはいなかったと断言できます。
しかし、その功績に対して、知名度が低いような気がするのですよね。
でも、ちょっと考え直してみるとそれもあり得ることなのですよね。まずは、横井さんが亡くなったのが1997年。つまり若い人は横井さんのことを知らなくても不思議ではないのですよね。
そしてそれ以外にも、横井さんが功績に対して「知る人ぞ知る」存在になってしまっているのは、その当時の理由がいろいろあると思います。ちょっとそれを挙げてゆきましょう。
当時は開発者の名前が前に出ない時代だった
横井さんが主に活躍をしていたのは1970年代~1990年代ですが、70年代はゲームというものがほどんど影も形もない時代であり、ゲーム業界という括りもないに等しいものでした。それが認知され始めたのは80年代後半ですが、その当時は「ゲーム産業は賤業」みたいな風潮があり、名前の露出に対してあまり積極的ではありませんでした。あと、ゲーム会社自体も引き抜き防止のためか、あまり開発者を前に出すことがありませんでしたね。宮本茂氏も、『ゼルダの伝説』では「ミヤホン」でしたし。
ただ、名前を出すのがどうとかというよりは、今のインターネットのペンネーム文化みたいに、そういった通称を使うのがその当時の文化だったのかも、とも思います。実際同時代のイースとかは、しっかり名前出ているし。
横井さん自身の名前はスタッフロールでよく出てきますが、逆に言うとそれくらいしかなかったという感じ。ただ、当時はみんな同じ感じでした。
余談ですが、堀井雄二さんは当時から有名でしたが、これはもともと堀井さん自身がライターとして一部では有名だったこと、会社に属しているというのではなく、独立系の開発者で名前が出やすかったこと、それにジャンプでの影響などがあるでしょう。
開発者の功績を伝えるメディアがなかった
上の続きになりますが、そもそも開発者を表に出そうにも、そういうのを広めるメディアがほどんどなかったのですよね。インターネットはもちろんないですし、当時のメディアでゲーム関係の人が出てくるのはゲーム雑誌とゲーム系のテレビ番組くらい。でもそういうのでも多くはは上で書いたような引き抜き防止や広告的な側面も考えて、広報の人が「名人」として出てくるような形であり、開発者自身が出てくることは希でした。今みたいに宮本茂さんが話すと経済面で写真付きで載るようなことは、夢のまた夢だったはずです。
90年代に入るとややそれが緩んできましたが(一時期スクウェア引き抜きが盛んで逆にきつくなった時代もあるけど)、その時に「ああ、昔やったこのゲーム、この人が作ったんだ」と知った人はそれなりにいるのではないでしょうか。
私も、横井さんの功績を知ったのは、氏が任天堂にいた後期のことだったのでしたが、それを見て非常に驚きました。ちなみに私が横井さんのインタビューを初めて読んだのは、『ゲーム批評』上での飯野賢治氏との対談でした(この話は資料が見つかり次第そのうち)。
ゲームソフトよりもゲームハードの人だった
上のランキングなど、ゲームの開発者として目立つのは主に評判となったソフトの人なのですよね。しかし横井さんはそれ以前のおもちゃやハード中心。ソフト開発もありましたが、主にはプロデューサーが多いかったようです。そのため、知名度がちょっと裏方的になってしまったところがあるのかも。
ちなみに時代のトップハードとなったファミコン、スーファミ開発の中心となった上村雅之さんという方がおられます。しかし同じくトップハード開発の中心となったPS、PS2の久多良木氏と比べて、知名度はかなり低いのではないでしょうか(現在教授なので、そちらでご存じの方も多いかも)。
任天堂の方針
任天堂は昔から、開発者を前面に出すことを控えていました。たとえば近藤浩治さんは、ファミコン初期から音楽を作り、『スーパーマリオブラザーズ』など数々の名曲を生み出しましたが、表に出てきたのはほんの数年前のような気がします。宮本茂さんでさえ、一時期まではその実績に対してあまり表に出ない感じだったような気がします。
これは、任天堂のゲーム作りをする上での方針だと言われています。つまりゲームは共同作業で、ひとりで名前の出る人を出さないという感じ。
横井さん自身の意思
ほとんどの伝統工芸品に作者の名はない。この無名性(アノニマス)に伝統工芸の特徴がある。
横井もまた「開発者が名乗り出てもしかたない、楽しく遊んでくれているだけで十分」と言う。
このコメントから、あれだけのものを生み出した横井さん自身が名前を緒氏だそうとせず、あくまでその遊ばせるものの裏方であったということが伺えます。
つまり、任天堂の方針自体が、この横井さんの考え方そのものだったのかもしれません。
あまりにも早すぎる逝去
そしてこれに尽きます。
ただ、あくまで想像でしかありませんが、横井さんが生きていたとしても、もしかしたら開発したものは現在あるようなテレビゲームのソフトではなく、それとは全く別のゾーンのもののような気がするのですね(そのために任天堂を抜けてコトを設立されたのですし)。
そしてそれはそれまで誰も考えつかなかった液晶を使ったゲームを生み出したように、またはあらゆる制約があった時代に、携帯ゲーム機を開発したように、全く新しい何かを生み出されていたのかも。
もしそういうところにいたとしても、ご存命なら宮本氏と同等の知名度を誇っていたでしょう。その面が非常に残念です。
でも、前述の横井さんの言葉から、自分の名前が目立つよりも、横井さんが作られたもの、そしてその延長線上にあるもので遊ぶ方が、本人の希望なのかもしれないなんてことを思ったりします。
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