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人がつまらないというゲームをおもしろいと思うことの幸せ

最近思ったこと。

味覚音痴の人というのは、実は一番特をしているのではないかということ。つまり、普通の人が「まずい」と思うようなものでも、その人は美味しく食べられるということは、その分幸せになる幅が大きいわけですよね。ということは、食通と呼ばれる人よりも幸せな人生を送れるとも言えます。

これはあらゆることに言え、そのものに対してプラスに感じられる要素が多い方が結果的に幸せではないかと。ものによっては、それが別の視点からおいて不幸になる場合もありますが、幸福と不幸なんて相対的で人によって違うのですし(なんだか下手をすると民衆論的なものにもつながってしまいそうな気もするなあ……)。

ゲームでも同じ。とあるゲームがみんなつまらないと言います。しかし、ある人は楽しめたと言います。この場合、どっちのほうが有効な時間を過ごしたと感じるかは言うまでもないでしょう。

さて、ここからが考えたこと。このように楽しめる幅が広い人は幸せというのは前述の通りですが、それは楽しめる幅が狭い人よりも「何か」が劣っているのか、ということ。

楽しめる幅が狭いというのは、いろいろな理由があるでしょう。たとえば過去には楽しめたのだけど、それに対して新鮮みがなくなったとか、もともと対象とする範囲が狭いとか。とにかく同じゲームをやって楽しめない人は、「何か」が楽しめる人より上のような印象を与えます。よく言われる「そんなクソゲーで満足して……」みたいな感じ。

 

ただ、少なくとも本当にそうでしょうか。

そもそもひとつのゲームに対して、全員が同じ感情を受けるのでしょうか。与えられるものは個人個人で違うでしょう。となると、それに対しての優劣は、ある意味「個人の視点の差」でもあるのではないかと。

たとえばロマサガシリーズは、ある人にとってはわずらわしく感じますが、ある人にとってはこれ以上ない名作として、賛否がよく分かれます。しかし、そのゲームで楽しめないのを上とも、また楽しめるのを上とも言えないのではないでしょうか。

私でも楽しめないゲームはたくさんあります。しかし、ある人はそれの中に新しいものを見いだしているという可能性もありますよね。

 

ゲームももちろんですが、小説やアニメのストーリー類でこれが言えるのもありますね。つまり、ある人にとっては意味不明でお涙頂戴に見える展開だけど、ある人にとってはそこに至るまでの登場人物の行動や心情を全てふまえて考え、そして感動するという展開。受け取り方は自由ですが、そこで感動出来ない人は感動できる人より劣っているということはないと思われますが。もちろん逆も同じ。だって感じ方は人それぞれ違うのですから。

そして、世間では評価の低いものの中に、新しいものを発見している人も中にはいるのではないかと。例えばゲームに関しても、そういうもののの中から、面白いものを見つけているものはあると思います。

 

何を言いたいかというと……人がおもしろい、つまらないというのをやる前に真に受けるより、実際にやって、自分で判断しませんか? ということ。他人がつまらないと言っているものを楽しめても、それは別に劣っているわけではなくかえって視点が優れているという可能性もありますし、何より楽しい時間を過ごせているのですから。

もちろん逆に、みんながおもしろいというものを「つまらない」ということを言うのもありでしょう。人間の感性なんて人の分あるのですから。

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