ネット上を見ていると「ゲームセンターは終わった」という言葉をたまに見つけることがあります。ただ、昔からゲーセン通いの人はわかるとは思いますが、この「ゲーセンは終わった」という台詞、今に始まったことではなく、昔から言われていたのですよね。それは10年やそこらではなく、おそらく30年はさかのぼれると思います。
というわけで、今日はゲームセンターがピンチと言われた歴史を辿ってみたいと思います。
スペースインベーダーブームの終演(1979年~1980年)
1978年、『スペースインベーダー』が大ブームを超える社会現象にまでなり、アーケードゲームが大発展したのは多くの人が知るところでしょう。
しかしブームは翌年には収束してゆきます。すると今までインベーダーブームに乗じて次々と出来ていたゲームセンターやインベーダーハウスの収益が一気に落ち込むことになります。
しかも当時、ゲームセンターは不良の巣窟、というイメージが植え付けられ、PTAなどの批判が起きます。学校で立ち入り禁止にする場合も多く見受けられました。
その結果、ゲームセンターは一気に人が退いてゆき、その結果閉鎖する店や倒産するメーカーも続出したということです。
さすがにこの頃は私もまだ物心もつかない頃で体感ではないのですが、おそらく、市場規模の落ち込みで言うと、この時が一番ひどかったのではないでしょうか。
ファミコンブーム(1983年~)
1983年、ファミリーコンピュータが登場します。今でこそ普通に行われる移植ですが、当時は『ドンキーコング』や『ゼビウス』『マッピー』があの完全な移植具合でアーケードゲーム機じゃないところで出来るというのは衝撃的だったのですね。
ま、さすがにこの頃はアーケードから家庭用移植までのタイムラグがかなりありましたし、アーケードの技術向上にファミコンやセガマークIIIがついてくるにはまだまだだったのでそこまで大きな問題にはならなかったと思われますが、その10年後のことを予測できた人が当時どのくらいいたでしょうか。
風営法改正による営業時間短縮(1984年~1985年)
1984年、風俗営業法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)が改正となり、ゲームセンターがその適用範囲となってしまいます。
これは、ゲーム機賭博(いわゆる10円ポーカーを行うゲーム喫茶)が行われていたのに網をかけるためだったようですが、それにゲーム機だけをおいてあるゲームセンターまでもが引っかかってしまった面もあるようです
これにより、それまでは営業時間が自由だったゲームセンターが原則夜の0時までとなり、16歳未満の入場は18時まで、18歳未満は午後10時までとなります。さらに、ゲームセンターの営業について、警察へ届出、許可をもらうことも必要になります。
おそらくゲームセンターの歴史では、このときが一番大打撃を受けたと思われます。どんなに文化が栄えていても、法による規制が一気に影響を及ぼすというのは、繰り返し起きる現象です。近年もそういう動きがあったりするので、留意しておくべきでしょう。
2D対戦格闘ゲームの人気収束(1992年~1993年)
1989年、一つのゲームを長くプレイすることでインカムが伸びないというゲーセンが抱える問題に対して、神のような存在が現れます。それは『ストリートファイターII』。
このゲームや後に続く対戦格闘ゲームは、プレイヤー同士の格闘というゲームセンターでのスタイルを打ち出します。しかもこれはどちらかのプレイヤーが1分やそこらで退場することになるため、非常に回転がよく、インカムが急激に伸びてゆきまいた。
しかしストIIやSNKものの人気があった時期はよかったのですが、さすがに発売から数年が経つと失速してきました。
まあこれは今考えればピンチというよりは、贅沢な悩みだったのですが、「ゲーセン飽きた」という人間はいたような気がします。
3D対戦格闘ゲームの人気収束&プリクラ人気収束(1997年~1998年)
さて、上の2D格闘ブームが収束しかけたとたん、運良く次の大ブームが出てきます。それは『バーチャファイター』『鉄拳』といった3D対戦格闘ゲーム。対戦格闘とはいえど、2Dとは全く別の楽しさを提供したこれらは、一度は消えかけていた対戦格闘の火が、再び燃え上がります。
また、1995年には『プリント倶楽部』が登場し、こちらも女子学生の間で大ブームになり、はじめて多くの女性をゲーセンに呼び込むこととなります。
まさにインベーダー以来のゲーセンの春のように思われた1995年前後のゲーセンですが(ただ、両方とも導入価格は高かったので、小さいゲーセンは大変だったようですが)、さすがにプリクラブームは終了してゆきます。また、2D対戦格闘の頃にもあった「強いプレイヤーが占めてしまい、弱いプレイヤーが勝てず、ゲームを離れてしまう」という現象が起き始めてしまいまいた。結果、どんどんゲーセンに来店する人が減ってゆきます(他にも理由があるのですが、後述)。
あと、格闘ゲームのインカムで味をしめてしまった業界が、インカムの薄いゲームを嫌った結果、シューティングやアクションなどプレイ時間が長めのゲームが売れなくなり、衰退してしまうという現象も裏で起きていました。その結果、バラエティが絞られ、ゲーセンのゲームが限られたプレイヤーのものになっていった面もあります。
ドリームキャスト・PS2発売(1998年、2000年)
このあたりのゲーセンは強運で、3D格闘の次にも救世主が現れます。それは1997年の『ビートマニア』を筆頭にした音ゲーブーム。それに続くダンスダンスレボリューションやドラムマニア、キーボードマニアなどの楽器シリーズは爽快感と単純で誰でも楽しめるゲーム性から人気を集めます。
しかし、裏では確実にゲームセンターへの来店数が減っていました。というのは、この頃になると家庭用ゲーム機のスペックがすでにアーケードに追いつきつつあったので。まあこの頃のゲーセン基盤はST-VやSYSTEM12など家庭用にそのまま移植できるようなものが主に使われていたのですが。
それでもSS、PS時代中期まではかなりの移植度を誇るとしてもまだアーケードの優位性が(特に読み込み時間で)見られましたし、格闘ゲーム全盛期には家でバーチャや鉄拳を練習してゲーセンで試合というスタイルがありましたが。
しかし1998年のドリームキャストにおいて『バーチャファイター3』をほぼ完全に移植したことでスペック的には並んでしまいました。極めつけは2000年のPS2発売。ここではアーケードゲームの性能を家庭用ゲームが追い越すことを可能にしてしまいました。
音ゲーブームは続きますが、2000年以降、画面を見てレバーで操作するビデオゲームが急激に減ってゆきます。そしてそれは、ゲームセンターにおける導入コストが高くなる問題をかかえることになってしまうのです。
音ゲーブーム収束(2003年前後)
音ゲーは様々なシリーズを生み出しますが、さすがに飽きが来ます。すると、次のブームは…となりますが、残念ながら格ゲー、音ゲー並のものはありませんでした。
しかもこの時期、今まで抱えていた問題が一気に噴出します。それはさっき説明したインカム重視傾向によるアーケードゲームジャンルの衰退や家庭用ゲームの追いつき、それに導入費用の高騰。
昔のゲーム基板価格は、新品でも10~20万くらいというものは多かったみたいですが、この頃の人気ゲームを仕入れるためにはもっと金が必要でした。ビデオゲームでも100万するものも多く出てきましたし、もちろん音ゲーなど大型筐体は当然高い。小さなゲーセンはそれを導入できません。
この頃から『三國志大戦』や『クイズマジックアカデミー』など通信ゲームも多数出てきて、それを導入できるメーカー直営などの大手は人気を集めますが、反面、それを導入できない小さなゲーセンの格差が出来てゆきます。
まとめ
そして、現代につながります。
このようにゲーセンはピンチの連続で、ゲーセンは終わったみたいな口調は今まで何度も言われてきたのですよね。そして最近でも同じことが言われています。
でも、ゲーセンに限ったことではないですが、よく「○○は終わった」と言われるものは、何をもって「終わった」と言うのでしょう。実際、減ってはいるものの、ゲームセンターは今なお健在です。ちなみに私の住んでいる練馬区の西武池袋線沿線東部には、いまだにメーカー系ではない、小規模のゲーセンが5件(うち中村橋駅前には2件)、しっかり残っています。たしかに昔に比べるとちなみに昔はさらに4~5件減ってはいますが、少なくともまだユーザーはいます。
たしかに昔から置きっぱなしのゲームが多く、麻雀格闘倶楽部が主な収入源みたいな感じはしますが、少なくともまだ終わってはいません。
ゲーセンは生き残るために努力していますし、メーカーもまだ大型筐体以外のリリースを続けています。故に、昔に比べて衰退したのならともかく、「終わった」というのは、考えが早急すぎに思えます(まあ「終わった」が「人生オワタ」のように一種の慣用句みたいになっている面もあるのでしょうが)。
たしかにアーケード市場は安泰とは言えないでしょうが、本当にゲーセンが終わるときというのは、店が全部なくなるというのは考えにくいので、たぶんリリースがひとつもなくなる時に言えることでしょうが、おそらくその未来は遠い気がします。
★追記(2014/12/11)
その2年後同じようなテーマで書いたもの。