QMAのDSをやっていると、連想問題で「伝説のクソゲー」というキーワードでいくつかのゲームが並び、答えが「たけしの挑戦状」になるゲームがありました。しかしコナミ容赦ないな。とはいえたしかに『たけしの挑戦状』は、ゲームの歴史上でも代表的なクソゲーとされています。もっともクソゲーと呼ばれるものにもなり得なかったゲームは、何十倍もあるので、名前が知られているだけでもいいとも言えるのですが。
しかし、このゲームの何が酷かったか、といって、ぱっと答えられる人もそんなに多くはないのではないかと思うのですよね。そこで今日は、このゲームが何でクソゲーと呼ばれるようになったか、そして本当にもとの企画からこれがダメだったのかを考察してゆきたいと思います。
このゲームがクソゲーと言われる原因になった要素として思いつくものを、ちょっと列挙してみましょう。
- ノーヒントでとんでもない謎解きがある
- 歌判定が不可解
- 時間がかかる(コントローラに触らず放置)
- アクションが異常にムズイ(パラグライダー)
- そんな困難を乗り越えての最後の大逆転(しかもそれを防止するヒントも与えられない)
有名なところではこんな感じでしょうか。
ただ、全体としてはこうなってしまったものの、よく考えてみると、ゲームが目指そうとした方向性はそんなに悪くはないと思うのですよ。たとえば歌で判定というのも当時としては斬新で、面白いと言えば面白いですし、アクションがあるのもアイディアとしてはいい。ただ、それぞれの出来が実際にはユーザーをイライラさせる要素が強いのですよね。しかしこれが別におもしろかったならば、たとえ難しくても別に伝説のクソゲーまでは言われなかったと思うのですよね(故に、私は『スペランカー』はクソゲーとは思っていません)。
当時PCでは『ポートピア連続殺人事件』『サラダ国のトマト姫』など、選択しコマンドではなく、キーボードからコマンドを打ち込んで探求してゆくタイプのゲームというのがありました。そして難しいながらも、一定の評価を得ていました。おそらく、それのファミコンで出来る版を狙った側面があるのではないかと思うのですよね。ただ、その謎解きを、ユーザーが難しくとも楽しいと思える範囲内に収められなかったのが敗因ではないかと。
ちなみに、同時代にあったこの手の謎解きで、難しいながらも「すごい!」と個人的に思えたのは、『ドラゴンクエスト』の太陽の石&魔法の鍵、『ドラゴンクエストII』のラゴスの居場所、そして『ドルアーガの塔』のアイテムの出し方「スタートボタンを押す」です。どれも盲点を狙ってきているところが。しかもドラクエの場合、町の人の話をきちんと聞いていれば、かなりヒントが含まれている点も。
たけしの挑戦状も同じく、このアイディアをゲーム的に練れば、それなりのものになった可能性はあります。しかし実際は伝説のクソゲーになってしまったわけで。
『超クソゲー』という本に、この開発に携わった人のインタビューが載っていますが、どうやらこのゲーム、ビートたけしのアイディアを使ったのは本当なのですが、それがかなり細かいところまで出してきて、それを全部入れてしまったらこんな感じになったみたいなのですよね。ただ、そのアイディアが当時のゲーム事情(スペックとか)を考慮したものではなかったものみたいです。例えば歌の判定も当時のファミコンじゃ事実上不可能ですし、ファミコンを一定時間放置することでさえ、普通はやりません。
つまり、「ゲームとして」方向づけられる人がいなかったのが、一番の敗因ではないかと。まあ、ゲームがまだまだ発展初期にあった時代の徒花かもしれませんね。今では、発売どころか企画も通らないでしょうから。
しかし、『『センチメンタルグラフティ2』が目指したかったと思うもの』でも書きましたが、クソゲーと呼ばれるものでも、すべてが最初から間違っているわけではないのですよね。
このように発想はいいゲームになる要素があったとしても、それを実際に組み立ててゆく段階で迷走して、結果としてクソゲーになってしまうというパターンは比較的多いのではないでしょうか。つまり、このようなクソゲーと呼ばれるものからも、いろいろと学べるところはあると思います。それは正面からも、反面からも。
でも、ゲームのスペックも上がり、インターネットの時代となって出来ることの幅がいろいろ広がってくると、このような行為を探求するタイプのものというのも、作り方によっては意外とおもしろいものができるのではないでしょうか。そういえば、脱出ゲームの類なんてのも、簡単なのから難しいのまで、いろいろ試行錯誤させるものが揃っていますし、これにクリック以外の要素を付け加えれば、かなり『たけしの挑戦状』が目指そうとして失敗したものに近づけるのかもしれません。もちろん、出来も『たけしの挑戦状』になってしまう可能性もありますけどね。