現在、ゲーム雑誌を見れば、ほぼ必ずと言っていいほど開発者のインタビューが載っています。メーサーサイトやゲームニュースサイトにも、そういった開発者のコメントが載っていることは普通で、毎日のようにブログで更新されることもよくあります。そして、エンドロールだけではなく、マニュアルにも携わったスタッフが掲載されることや、インタビュー、コメントが収録されることも多いですね。しかしながら昔を思い返してみると、そういうものってほとんどなかったのですよね。ましてや、マニュアルに名前が載らないどころか、スタッフロールもない場合も多々ありました。
さて、このように開発者が目立たなかった理由というのは、様々あると思います。ちょっとそれを列挙してゆきたいと思います。
ゲームクリエイターの地位が社会的に低かった
昔は正直、あまりゲームクリエイターの地位が高くなかった時期があります。当時ゲームクリエイターになると親に言ったら、「大学を卒業しておいて、何でそんなことをするんだ」と言われた人がいるとかいないとかいう話もありますし(そもそもコンピュータを使う仕事自体が、社会的にほとんど認知されていなかったかも)。故に、あまりそういう作り手が名前(実名)を公表したいと考えなかったという傾向があります。あの『ゼルダの伝説』でも、宮本茂氏は「ミヤホン」、近藤浩治氏は「konchan」名義ですし。
媒体がなかった
そもそも、開発者インタビューを載せるような媒体がなかったというのもあります。当時やっとゲーム雑誌が出始めたころですが、主には裏技や攻略、新作情報なんてものが中心で、あまり開発者が出るようなことはありませんでした。まあ前述の理由からか、進んで出たかった人は少なかったのかもしれません。そのかわり出ていたのが広報の人、言い換えれば「○○名人」と呼ばれる存在だったりします。
会社の引き抜き防止
ゲームハードがPS・SS時代に移行したての頃、スクウェアでは、他社からクリエイターが続々移籍するという現象が起こりました。ドリームファクトリー(ナムコ、セガからの移籍組)、それにファイナルファンタジータクティクスチーム(クエストからの移籍組)なんかが有名な例でしょう。そして当時、それに過剰反応したメーカーは引き抜き防止に開発者をできるだけ公表しないという方法に出始めます。ですので当時のゲーム雑誌では、開発名や顔写真が伏せられていたり、極端な話、専門学校の広告に載っている実績(○○・××社に入社)のところの顔写真も伏せられるようになっていました。
技術者が人材不足な折、この引き抜きを嫌って極力露出させないという例は、当時ほどではないにせよ,今でも続いていると思います。
会社の方針
その他の理由であまり開発者を表に出さない場合も存在します、特に任天堂がそんな感じですね。これは、引き抜き防止のいみもあるかもしれませんが、ゲームは1人の功績ではない、という社風もあるように気がします。
ちなみに任天堂の宮本氏や横井氏も、名前が認知され始めたのはおそらくスーファミ時代半ば以降かなという感じがします。近藤さんに至っては、ほんと数年前まで顔が出てこない有名人でしたし。現在でも、名前は有名でも、インタビューがほとんど無い人(あっても自サイトの文字だけコメント)とか多いですよね(とたけけさんとか)。
まとめ
こんな感じで、昔は有名になるのってのはだいたい退社して、独立した時だったりしたような。『ドルアーガの塔』『セビウス』で有名となった遠藤雅伸氏も、ナムコ在籍中はごく一部の熱心なファン以外には、あまりと思います。おそらく目立ち始めたのは、フリーになってから、過去の作品群を知った人ではないかと。古代祐三さんもそうかも。
ただ、パソコンゲームの場合は割と昔から名前は出てくる人はいたような気がします。その代表的な存在があの堀井雄二氏。これはパソコンゲームが狭い市場で、且つ1人で作り上げるものだったので、注目が集まりやすかったからかもしれません(堀井さんがライターとしてそれなりに有名だった&ファミコン以降はジャンプのプッシュがあったというのもあるでしょうが)。
さて、現在社会的にも一定の認知をされ、また露出の手段も増えたゲームクリエイター。これは実績が評価される面ではよかったと思います。少なくとも、いくら頑張っても個人として全く評価されないよりは。