こんなエントリーがありました。
■任天堂失敗列伝~第一回~「64DD版MOTHER3の巻」 – 枯れた知識の水平思考
■任天堂最大の迷走期とは – カイ士伝(情報元:ふぇいばりっとでいずさん)
ここでは、任天堂の迷走期と、そこで出た数々の商品や当時の状況(インタービューなど)が書かれています。
しかし、任天堂は本当にニンテンドーゲームキューブ時代や64時代が最大の迷走時期だったのか。
いやいや、「任天堂の最大の迷走期」という言葉だけとらえれば、実はもっと洒落にならない迷走期間が存在しました。それはすなわち「ファミコン」や「ゲーム&ウォッチ」が存在するそれよりもさらに前。現在でも無借金経営で有名な任天堂ですが、この時期借金で倒産直前までいきかけたと言われています(おそらくこれは任天堂のことをご存じの方はわりと知っている方も多いので、前のふたつのエントリーを書かれた方もご存じかもしれないですが、あえてエントリーのきっかけとするために私の方でねじ曲げていますのでご了承ください)。
今日はこの話を。
任天堂は1949年、先代が早くに亡くなってしまったために、山内博氏が22歳で社長となります(その時の話もおもしろいのですが、それは長くなるので以下のページで読んでください。以下の文章も下のサイト参考)。
■参考:Philosophy of Nintendo
花札屋だった任天堂は、ディズニーとの提携でプラスチックトランプを発売。これが成功します。そしてその後、山内社長はカード屋で終わらないと異業種にいろいろ手を出します。これはタクシー会社、インスタントライス、ラブホテル等。しかしどれも惨敗で、しかもそのうちトランプの売り上げも下がってきます。
しかし1965年横井軍平氏が入社。有名な「暇なので遊びでマジックハンドを作っていたのを山内社長に見つかり、怒られると思って社長室に行くと『それを製品化せい』と言われた」という話の通り、横井氏を開発として重用し、「ウルトラマシン」「ラブテスター」などを世に出し、大ヒットを飛ばします。
だけど、この裏では多角化経営にも乗り出していて、家庭用の簡易コピー機や文房具ベビーカーなど育児用品にも手を出しましたが失敗。借金がかさんで倒産の危機にも何度かあっていたようで。
しかしまた「光線銃」の大ヒットで持ち直した……かと思いきや、ボウリング場の跡地に作った「レーザークレー射撃場」が、オイルショックの影響もあり失敗。面白い商品は出続けているにもかかわらず、この時期も非常に危うかったようです。
しかし、ここでゲーム機市場に着目。「テレビゲーム6」「テレビゲーム15 」を売り出し、これがヒットします。
それから1980年には『ゲーム&ウォッチ』が発売。これが大ブーム。さらに翌年、海外で余っているアーケード基板用に宮本茂氏を中心として『ドンキーコング』を開発。これが大ブーム。このふたつで任天堂は倒産の危機から一転して、一気に借金を帳消しにしてしまったそうです。
こういったわけで、今では超安定企業に見える任天堂も、30年前は倒産の危機になるほど迷走していたのですね。つまり、64やGCの迷走は、任天堂の歴史にとってみればかわいいものとも言えるわけです(スーファミ、GBの大ヒットで内部留保だって相当あったみたいだし)。ですので64やGC時代の迷走も出来たのかもしれません。
ちなみに山内社長が岩田氏に社長職を譲る時には、この時の経験をふまえて「異業種には手を出すな」と言ったという話があります。それはこの歴史をふまえてのことだったのでしょう。
■参考:山内溥 – Wikipedia
新しいものを生み出す時には、こういった迷走はありますが、それがあったからこそ次に繋がるのですね。おそらく今後も「あれ?」ってものは任天堂問わずどの会社からも生み出されるでしょうが、意志があれば何かの形で(時には反省材料としても)きっと次につながるでしょう。