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ゲームが時間的にプレイヤーを拘束するタイプのゲームについて考えてみる

最近は『街へいこうよどうぶつの森』を1日30分~1時間程度やっています。でもこれ、前作のDS『おいでよどうぶつの森』でも同じだったのですが、ゲーム内の時間に振り回されるのですよね。すなわちとたけけライブは土曜なので、その時間はやるとか(実際今、つけながら書いているし)、日曜朝はカブリバのために午前中に起きるとか。

ラジオで伊集院光の嫁さんが、DSぶつ森のハッピーニューイヤーの瞬間を見てたということを言っていましたが、それと同じことは全国各地で行われていたのではないでしょうか。私はその瞬間はさすがに蕎麦食ってたけど、やっぱり寝る前にはやったし。ちなみにお正月の音楽『初詣』は名曲(クラブニンテンドー特典の「ピーチ」に収録)。

こんなふうに、あるイベントの時間になると「やらなきゃ」と、本来娯楽で好きな時間にやるはずのプレイヤーが、時間的に振り回されているという言い方も出来ます。だけど、ユーザーはそれが楽しくてやると。めんどうになったらやめてしまうでしょうし。

 

この手の、ユーザーをゲームのプレイ時間的に振り回すゲームの歴史を考えてみると、やはり思い浮かぶのは『たまごっち』ですよね。あれがブームになった1996年は、これにより授業中や勤務中にたまごっちの世話をするような現象も発生しました。あれが「現実の時間に縛られるもの」というプレイが目立った最初のものかもしれません。

余談ですが、「ゲーム的に」たまごっちを早くてんしっちにするプレイを「殺すのを競うなんて生命倫理の欠如だ」として報道したものもありましたが、まあ何でもゲームを社会病理に結びつけたいのはこのころもあったということで。

その後、コンシューマゲーム機でも「時計機能」等を使って同じようなものが出てきました。プレステでは『どこでもいっしょ』(まあこれは厳密には時間的制約ではないですが。そもそも初代PSに時計機能はついてないので)、サターンでは『ルームメイト井上涼子』シリーズなんてのがありましたね。

 

つまり、ゲームに「時計」がついたことで、この時間的制約を課すゲームというものが生まれたと思います。

ただ、時計により何か(たとえば見た目)がちょっと変化するとかのゲームは非常に多いものの、前述のゲームのようにプレイヤーを拘束する性質の強いものはあまりないような気がします。それは簡単で、製品にそれだけの魅力がないといちいち自分の時間を費やしてまでそんな拘束されようとは思わないし、そうなると時間毎に設定されたゲームの魅力の大半が楽しまれないまま、プレイするのを終えられてしまうでしょうから(たぶんそういうことが出来るソフトはほかにもあると思うけど、あまり目立ってないし)。

 

つまり、この手のことができるのは『どうぶつの森』において、今までの信用、すなわち、時間を多少食ってでも、それを楽しめるという信用があるからではないかと(あと、今なら交流するプレイヤーが多いということもあるでしょうが)。

とはいっても、コンシューマーゲームのこれらの場合、実は強制度は低いのですよね。アイテムを手に入れなくても、進行には影響ないし。ものによってはあとで取り返すことも出来るし(1年待つ場合もありますが)、譲渡もあるし。ただ、それを強制させてしまう時には、それだけの魅力がある、というこのなのでしょう。ただ、コンプリートを目指したり、より深く楽しもうとすると、そういったものを受けると。でもこれは(放棄も出来るのに)好きでやっていて、別に時間的拘束を受けているのでもないかもしれないとも思えます。ま、これは人の考え方次第でしょうね。

 

しかし、時間的制約がゲーム側で課されてなくても、それの影響を受けているものはあると思われます。それはネットゲーム、というかMMORPG。これのプレイの魅力で「交流」を主にしている人がいますが、人が集まる時間帯はだいたい決まっているでしょう。となると、現実はその時間、ゲームに拘束されると。ただこれも、楽しんでやっているので、拘束されていると感じるかどうかは人次第でしょうね。

ま、結論としては「この手のゲームは自分の好きなようにやればいい」というつまらないものになりますが、そんなものでしょう。ゲームにおいては人に迷惑をかけない限り(ここの定義も難しいですが)、遊び方は自由だと思いますので。

 

◆追記

ちなみにすごく広義でとらえると、すべてのゲーム、いやすべての娯楽、というか人間生活のすべては、時間に拘束されていると言えるのですよね。ある意味睡眠だって人間機能的に必要であれど、拘束されていると言えなくもないわけで。

ま、今日の所は狭義で「ゲームがプレイ時間を指定するタイプ」と捉えてください。

 

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