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「ゲームは1日1時間」は、現代のゲーム作りにおいて重要なキーワードかもしれない

 このようなお話が。
 ■ハドソン高橋名人が、東京大学で“ファミコンブーム”を熱く語る!
 ここでは高橋名人が、「ゲームは一日一時間」が当時流通から問題視されて、役員会でも議論されたというお話があります。
 さて、ここでは親の印象をよくするために、「テレビゲームがうまくなりたいなら、“ゲームは一日一時間”集中すべし!」と言ったとあります。でも、さすがに今そう言う人もあまりいないでしょう。
 でも、今のゲームにおいて考えてみると、この言葉は別の意味で重要なキーワードではないかと思ったりもするのです。
 さて高橋名人のこの言葉ですが、たしかに保護者の印象をよくするものということですが、理は通っています。1時間という量が適切かはどうかわかりませんが、アクション系のゲームはやみくもにやってもうまくならない場合があります。というのは考えなしに手数だけ増やしても、考えなければ勧めないことがありますし、何より集中力がなくなってきて同じ失敗を繰り返すようになります。私も90年代の中ごろのアーケード最盛期は毎日のようにゲーセンに行っていましたが、多くの場合は一度席を立ち、ジュースでも飲んでからまた新しくやるというパターンが多かったです。それは連コインをしないためという長年のマナー的習性もありましたが、やはりクールダウンした方が楽しいし、同じミスを繰り返しにくいのですよね。まあ抜群の集中力のある人ならともかく、集中力のない私とかはたしかに短時間でやったほうが先に進むというのは同意です。
 さて、この集中力の続く時間、実は現代においては別の意味合いを持つのではないかと。
 現代では、娯楽が過多となり、ゲームは他の娯楽との時間を奪い合うことになっています。室内だけでもネット、携帯、漫画、テレビ等々。そしてゲーム離れと呼ばれる現象が始まりました。さて、こんな状況だと集中力が切れて疲れ始めた途端、やめてしまってほかの娯楽に移る人は多いのではないかと思うのです。例えばプレイに疲れたら雑誌やネットをぼーっと見るとか。よほど熱中していれば別ですが、全部が全部、連日そうなるとは限りません。つまりゲームを毎日何時間もやる人が少数になってしまったという感じ。
 しかし近年、『脳トレ』『えいご漬け』など、1日にちょっとを毎日やるタイプのものが増えてきました。いや、こういった知育、実用系だけではありませんね。『おいでよどうぶつの森』や『キミの勇者』といった、細切れにプレイできるタイプが増えてきました。つまり、1日のプレイ時間を30分とか1時間以内に出来るのですよね。しかし、これが楽という印象を持った人は多いのではないかと。
 ゲームだとそれを止めるのにはゲームの仕様にあわせなければならず、昔はそれの間隔が長いものが多かったですよね(例、PSの『女神異聞録ペルソナ』など)。しかしそれは、よほど熱心なユーザーでないと逆に疲れを及ぼしてしまう場合も有ります。娯楽で疲れるのも馬鹿馬鹿しいとか、それ以前にそんなゲームをするまとまった時間がないというのがゲーム離れの一因だったとも言えます。  しかし、上記の作品はそれらを解消しているのですよね。故に気持ち的に楽だというので人気が出た面があると思われます。
 ほかにもDSでは携帯機という機能上、セーブがある程度どこでも出来るようになっています。しかしそれは返せば「どこでも(飽きたら)止められる」ということで、これが携帯機が発展した理由のひとつかもしれないなんてことを思ったりします。
 さて、先の言葉に戻って考えると、「ゲームは1日1時間」というのは、逆に言えば人間がゲームに集中できる時間はそんなもんで、ずっと集中してはいられないということを暗に語っているのではないかと思えるのです。そしてそれは今はユーザーではなく、開発者に与えられ、そして先のような短時間で区切られるゲームの思想を指すものとなっているのではないかと。
 こう考えると、この言葉の持つ意味は時代遅れなどではなく、むしろ先進的な言葉なのではないかとも思えるのです。しかしユーザーに向けてというよりは、開発者に向けて。
 実は今日のはネタのつもりで書き始めましたが、なんかそれなりに説得力を持ってしまったような感じです(でも一応ネタタグ)。自分も最近は3時間ぶっ通しでゲームとかすることがほとんどなくなりましたし。ただ、時間をを忘れるほどのゲームが出てくるなら、むしろ2時間でも3時間でもやりたいです。まあそれによってブログ更新が大幅に滞りそうですが。

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